伊勢志摩|的矢かき|スペイン村ホテル|伊勢志摩 (旅館橘)|伊勢神宮

当地的矢では千石船の時代風待ちの港で栄え歴史文化材が沢山あります

伊勢志摩 美味し国の料理旅館橘

当館・橘は伊勢志摩国立公園の的矢湾を望む、高台にあり、漁船の出舟・入船を眺められ、朝日・星空が綺麗で鳥のさえずりに心が和みます、またお風呂も海を眺めながら24時随時入浴できます、伊勢神宮・おかげ横丁・志摩スペイン村に近く、ゴルフ・釣り・海水浴・お絵描き・撮影スポット多数あり、当館専用生簀には、天然魚・海老・貝類をご用意いたしまして、スタッフ一同、心よりお待ち申し上げております。

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小的矢の日和山

伊勢の的矢の日和山、と壷井栄の随筆にも描かれた的矢には全国の中で珍しく、一つの村に二つの日和山を有し、(全国2番目に古い方角石(2個)があり資料館に保存) 海が荒れても、風が吹かなくても出港できない(帆船のため)、船頭が毎朝、日和山に登り出港の判断をしました。

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届け墓

この墓石は長い航海の船乗りたちが郷里のお墓へ参れないときに、この
墓石の表からおまいりをすると、裏から、故郷の墓へ届くといはれ、昔の
船人達は、風待ちの間におまいりしたと語られています。

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☆的矢の殿様 的屋美作守の鎧石

鎌倉時代後期(1330年)の頃的矢は的屋美作守(みまさくのかみ)の支配下にあり、代々美作守と名のり、現在の八幡山一円を居城として、善政を施していたが、享禄四年(1531年)周辺の土豪に攻められ自刃し、的屋氏の総検校としての名声は二百三十年で途絶えた。美作守が最後に、この石に鎧をかけ最後の訣れをなし出陣したという。
(注この鎧石は「広」といはれる場所に鎧塚として、あったが、明治初期に現在の所へ移設された)

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☆的矢の殿様 的屋美作守の供養碑

享禄四年(1531年)的屋美作守戦死後、遺児四人は乱を避け、安濃津方面に逃れたが、三十三回忌に当る永禄六年(1563年)二親の為これを創建したもので、この付近では最古の金石文としても貴重である。上にある、昭和八年当地を整地したとき、大松の下から仏体の頭首部が出土したので、体躯部を造り的屋氏墓所と伝えられる、この地に安置された。

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☆儒学者 北条霞亭の墓

的矢は江戸時代には避難港として、大いに栄え「小伊勢」と呼ばれるほどの人の往来(船による)多く文化的にも大変恵まれていました。霞亭は当時、的矢を背景に育った儒学者である、先祖は戦国時代の武将・北条早雲といはれ、当地で代々医を業とした。安永九年(1780年)に生れ十八才で京都に医学と儒学を学んだ、後菅茶山の門に入りその長になり、福山藩並びに藩士儒官に召れたが、文政六年四十四才で江戸に客死した、頼山陽とも親交があり、博学で詩もよくし著書も多く、森鴎外薯「北条霞亭」は、霞亭の書簡を中心として、その生涯を詳細に述べている。

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☆無 縁 墓

的矢の墓地には沢山の無縁墓があります、千石船が沢山、係留されていた、
当時、航海の途中亡くなる、船乗りも多数あり、船宿の墓や無縁墓の葬られること
が多く、作家、坪井栄先生の祖父も中の一人で、坪井先生も祖父の墓を探しに三度的矢の
地の訪れ、墓をさがしたが見つからず、著書「伊勢の的矢日和山」を著しました、
昔、村人が、小豆島の勝蔵の墓をまえに見かけたと言はれ、的矢区の皆さんで数度さがし回りましたが、見つける事が出来なかった。

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☆大的矢の日和山

この方角石が 全国2番目に古い方角石で大的矢と小的矢と(2個)があります、
海が荒れても、風が吹かなくても帆船のため出港できないので、毎朝、船頭が、日和山に登り、この方角石をたよりに、出港の判断し出帆の日を待ったのである。各地に日和山や方角石の名は聞かれるが、両方を完全に現在に残すのは当地のみです。平成六年町文化財に指定されたのを機に永い年月風雪にさらされ傷みの激しい方角石を、当時をしのぶ貴重な資料として、資料館に保存し、現在はレブリカが設置されています。この日和山は小的矢の日和山より2キロほど外洋に近く小的矢より前からあったようですが方角石は大的矢ほうが小さいです。この、日和山も水平線を望み右に安乗崎、左に菅崎が眺められ、その日の天気を占うには絶好の場所と考えられます。

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☆9子供地蔵尊

その昔、子供たちが海で亡くなるので、困っていたところ、一人の漁師が海底に光るものが在るので引き上げたところ、小さいお地蔵さんのような石でした、これを小さい祠を建て、お祀りしたところ、それ以後、子供たちの海難がなくなったと伝えられております、その後、毎年8月24日の地蔵盆には子供たちだけで、提灯に絵を描き、ロウソクに灯をともし、地域の人々が何時の時代からか分かりませんが、永い年月、続けて御祀りをしています。

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☆的矢の殿様 的屋美作守の菩提寺

鎌倉時代後期(1330年)の頃的矢は的屋美作守(みまさくのかみ)の支配下にあり、代々美作守と名のり伊雑の浦総検校として、的矢湾一帯の公事・兵事そして伊雑宮の神事を司っていた。現在の八幡山・みんなの森一円を居城として、伊雑宮へも往来し神領としてとしての冶世も良く善政を施していたという。戦国時代、周辺の土豪に攻められ、享禄四年(1531年)自刃し的矢氏の総検校としての名声は約二百三十年で途絶えた。

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☆的矢村神社・嶋田的浦の句碑

水平線と的矢湾を眺められるこの辺り一帯は的屋美作の守の居城があつた所とされ、すぐ傍には、的矢村神社があり昭和54年旧的矢中学校跡地が整備され『みんなの森』として完成されたのを機に俳句を愛する郷里の人たちの熱意が実って俳人(嶋田的浦)本名襄先生の句碑が建立されたのが昭和56年4月である。この句はこの地から水平線を眺め、吟じられた、句である、的浦先生は常に望郷の情強く、的矢の美しい景色を吟られた作品が多くみられます。

青峰山 正福寺

正福寺山門建立大工中村九造の墓

この西の方の山は志摩地方では一番高い山で、昔から海上守護の霊峰として広く知られ、的矢で風待ちする船乗りたちは、出港できない日には、航海の安全を願い、青峰山へ参拝していた、この山門を建設した、大工棟梁、中村九造の墓が的矢の墓地にあります、この山門は中村九造が長い年月をかけて完成させたもので、入母屋造、本瓦葺、三間一戸の楼門で、各部に多用された彫刻は、それぞれ繊細を極め、江戸時代末期の特色をよく現しており、当時その彫刻の見事さから評判だったそうです。
またこの山門には珍しく左右に二体計四体の仁王様が安置されています。


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☆嶋田青峰の句碑   秋晴れや海のほとりにかえりけり

嶋田青峰先生は明治十五年三月八日的矢村で父峰吉 母りうの三男として生まれる、本名は賢平といい、生家はこの碑の近くにあります。的矢尋常小学校卒業後、大志抱いて上京勉学の途上一時健康を害し静養のために帰郷したが、早稲田大学哲学及び英文科を卒業し、広島県立高等女学校、早稲田大学清国留学生部などの英語教師を務めた、その後国民新聞に入り俳人高岡虚子の下で文芸欄を担当、その後郷里の兄や仲間たち句作の熱意をうけ俳誌「土上」の主幹として新興俳句の名声を天下轟かす偉業を成し遂げたのです。自然や人物を客観的に詠んだ秀句の中に、郷里的矢のことなどが多いのも、こよなく幼少から郷土への懐旧を忘れ得なかった為であろう。

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☆的矢の番所

的矢には昔から番所と呼ばれる、船着場があります、その昔的屋美作の守の殿様の時代に
伊雑の浦総検校として、的矢湾一帯の公事・兵事・伊雑宮の神事を司っていた頃、伊雑宮への船参宮の番屋があったようである、現在は県道船のまとや丸の発着所になっております、三ケ所と渡鹿野島からの通学と市民の足として、三地区唯一の医院への通院や観光のお客さんが写真撮影やスケッチに渡鹿野島へわたります、何度乗っても無料です、迎えの合図で随時来てくれます。


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☆現在の風待ち港の町なか散策と三重ブランド的矢かき養殖場見学

現在の風待ち港の町なか散策と三重ブランド的矢かき養殖場見学ができます、昔の面影のある
海岸沿いの細い町なかを歩いて、また最近完成した、堤防も散策できます、町はずれのある、
三重ブランド第一号の的矢かきの佐藤養殖場につきます、見学とお土産が購入できます。

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☆的矢の墓碑に刻まれた俳句・和歌

的矢の墓地には、風待ちの港時代、上方や江戸からの文化の流入の影響なのか、俳句や和歌の刻まれた墓碑が多くあり、古いものは読み取れないものが多くあり、確認された句の一覧です